メモ

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アサガオと加瀬さん

 

 初めに。この映画は高等学校生徒同士の恋愛映画である。他の映画と違った点と言えば、非常に些細な事ではあるが、同性同士の恋愛模様を描いた映画であった事だろうか。まだ恋愛という友達とは別の形の関係に不慣れな女の子同士の恋愛は非常に考えられるものがあったので書き記す事にした。時間が許すようであれば綴った文字を追ってみてほしい。

 

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 私はレズが好きかどうかという命題に対して少し言及しなければならない。いや、レズという安易な表現では読者に私が思っているイメージの1%も伝わっていないかもしれないので私のイメージしているものを言葉で表現していく、という言葉に替えさせてもらう。百合とレズの違いの言葉遊びは今回は省く事にする。まずは以前私が抱いていた虚像について。

 決して私は常日頃から女の子同士の恋愛を嗜んでいるわけではない。恋愛という行為に関してはあくまでも主体は私であってほしい、というのが自分の欲に沿った直な考え方である。恋愛をしていれば自然に自分と相手と重ねたくなるのは本能としてあるのではないだろうか。そういった表現も今後出てくるが了承してほしい。女の子同士の行為を以前動画で見たことがあるが見た感想を簡潔に述べれば、美しくもあり窮屈でもあった。まるで、ガラスで区切られた一室に自分が閉じ込められたまま、女の子同士の行為を覗いている感覚がしたのだ。その世界には女の子しかいないのである。その様子は綺麗ではあるが、自分が不必要とされているようなメッセージ性を感じ酷く堪えたのを覚えている。そのメッセージ性というのは私が勝手に感じたものであるが、私はこの行為をできない身体に生まれてしまったのだからこの発想に至るのは至極自然な事ではないだろうか。羨望の眼差しすらあった。自分の考えうる美学の究極の容であったため自己嫌悪を催す、というのが自分の以前までの考えであった。

 このように女の子同士の恋愛を漠とした、漫然とした概念でしか捉えきれていなかったが、今回の題名にある映画を観て新たな価値観を知見を得たのである。出会はいつも偶然のタイミングで、必然的に自分の足りないモノと巡り合う。

 

 

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 この映画は、交際後から物語が始まる。既にカップルが完成されているのである。主人公は緑化委員を務める内気な女の子である。クラスの隅っこにいるような子である。恋愛経験もなく純水無垢そのままであり、何の計算もなく交際相手を自部屋に呼ぶような女の子である。その描写からつかみ取れた事は、まだ自分の欲という殻を破った事もなく、他人も(自分と同様に部屋でそういう行為をしない人)そうである、と信じ切っているようなパーソナリティーが伺えた。打算で動かないために他人の心情の機微もあまり分からず、パートナーが主人公に振り回される描写も幾度かあった。しかし、本人は自分が振り回されていると思い込み、その振り回されるのですら楽しんでいる様子であった。自己表現が苦手であるため、そこにコンプレックスを持ち苦悩する気質である。

 他方は陸上部のエースを務めるようなボーイッシュでスタイルもよく他の女性からも人気のあるアクティブな子で対称的である。女性からしたら完璧のカタログスペックである。交際中のイニシアチブですらこの子が握っているため、私が「童貞の妄想やんけ」と思ったのは内緒である。上記の主人公の部屋は植物やピンクの家具等で敷き詰められているのに対し、この子の部屋は殺風景そのもので色調も暗く落ち着いた部屋という印象を持った。また、この子はストーカー気質であり、ストーカー特有の自己表現に富むタイプである。主人公の部屋に誘われた際にも、主人公がお茶を淹れて部屋を空けている間にベッドのシーツの匂いを嗅ぐ変態クソ野郎である。主人公の家に呼ばれた時に主人公からの「迷わなかった?」という質問に言葉を濁しつつ微塵も道に迷わないところも完全にストーカーそのものである。どうやら入学時からこの主人公に好意を抱いていたらしく、緑化委員の活動をしている主人公を鋭く観察していた様である。「雨の日は緑のカッパを着て頑張っていた君を屋上から見つめていた。けど今屋上に君を連れてこうして目を合わしてくれるようになった」等のポエム的な口説き文句のワードセンス、観察眼、どれを取ってもストーカーに他ならないが、あまりにも魅力的であるために交際まで漕ぎ着け、ストーカーから純愛に昇華させた彼女の腕を評価したい。後半多少自分のこじ付けが多かった気がする。

 

 

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 この二人の恋愛劇を描いたものがこの映画である。交際後から始まりクラス替え、一緒の下校、ストーカーの家庭訪問、修学旅行、お昼休みの弁当交換、等の学校イベントをこなしていく。勿論、共学である描写があったために周囲に付き合っている事を漏らしてはいないままである。お互いに相手の感情を慮りつつ、かつ、コミュニケーションを幾重に施行しても相手の本質に近づけない苦悩等が事細やかに表現されていた作品であった。その二人の関係からは決して同性同士である事の悩みはなかった。自分の考えで決めたパートナーに失礼のないようお互い別のアプローチ方法で自己表現する様子から、性別なんて些細な問題でそんな壁を微塵にも感じさせない愛情こそ本当の愛の可能性を秘めているという考えを自分に根付かせてくれた。

 そんな二人にも転機が訪れる。ストーカーが陸上の推薦で大学から東京に行くというのである。主人公は”そんなはずがない”と信じ、現実から目を背けてきた。と言うよりは、現実味がなくこの問題を受け入れられないようにも見えた。しかし、そういう時というのは時間が経つに連れ現実の方から迫ってくるようになり、目を向けざるを得なくなるのである。主人公はストーカーにこの事を相談する。ストーカーは陸上よりも主人公が好きであるので地元に残る選択肢を提示する。主人公はストーカーの将来への可能性の事を思って、毎週末東京に会いに行く事を提案する。しかし、この案も現実味がなく、相手を安心させるための方便である事を本人は分かっていて、口から出まかせに出ただけであるため何も問題は解決に向かわなかった。

 そして主人公は本当に地元の大学に行くのかどうかの葛藤をしつつ決断をできないままストーカーの入試当日を迎える。

 当日は主人公は頑張ってね、と強がった作り笑顔で送り出すものの本当の自分の気持ちは?ということに気づき、

 

 (ここらへんから『明日への扉』のカバーが流れる)

 

新幹線ホームで旅立とうとするストーカーに飛びついて二人で東京に向かう。

アサガオ花言葉は・・・。

 

 

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この世の中っておちんぽ必要なん?って思わせられる映画でした。

 

 

 

ふぅ・・・・。(賢者タイム